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18話 問答

静寂だった。

久しぶりに感じる完全な静寂。その中で、この空間の主であることを語る者の声が朗らかに聞こえてくる。
光の中に溶けていくかのような輝かしい声が。


「お前は誰だ?」

口に出して初めて、それが意味のない問いであったことに気づく。
俺を"ヴェル"と呼ぶ人間はもうこの都市に残ってなどいない。その呼び名を最後に聞いた頃は、今のような目ではなかったという事実をふと思い出す。
それならその頃、俺が見ていた世界は今よりも青かったのか。


「私が何者かなんてことは大事なことじゃないのよ、ヴェル。とにかくお話しましょう」

目の前には、明るく温かい光だけがある。
まるでこの都市の至るところに散らばっていた光のような、ここにいるだけで全ての過ちを露わにされてしまうような羞恥を呼び起こされる。

そうして必ず思い浮かぶ顔がある。救済というものを無闇に抱えてはならないとでもいうように、鮮明に。

「だから私たちは互いのお客さんなのよ。私が貴方に聞きたいことがあるように、貴方も私に言いたいことがあると思うわ」


この都市では、答えを得ることができない質問が多い。誰も答えることができず、大半はその疑問を抱くことさえ許されない。
だから答えてみることにした、この声に。


「貴方の心はとっても痛そう。貴方が救えなかった子供たちが、貴方を悩ませているのよね?」
「……」

返事は不要だった。そんな沈黙など気にしないとでもいうように、声は続く。

「とっても純粋な子たちだった」

感傷のようなその言葉に憐憫や悲哀はこもっていない。もしかしたら、この存在は変わり果ててしまった子供たちに対する答えを知っているのかもしれない。

「実験室にいた子供たちは……」
「遅かったわ。もう戻る方法はない。世界に対するその無垢な無知がかえって彼らを苦しめたの」

朗らかな声が容赦なく鉄槌を下す。
どこかでわかっていた真実。そうだとしても、それが間違っていることを期待しなかった訳ではなかった。

「ああ……貴方の心を責める声が聞こえる」

心は声など上げない。しかし声にそう言われてやっと、俺の心に静かにひびが入っていたことに気づいた。

「こうなっては……いけない子供たちだった」

すると温かい声は、俺を庇うように言葉を繋げた。

「わかってるじゃない、ヴェル。今まで起こった全てのことが、貴方だけの過ちではないってこと」

謳うような、夢でも見るかのような音節。それはまるで、罪を減らしてやろうとする慰めのように聞こえた。もう少し耳を傾けてしまえば……思わず座り込んでしまいそうになるほどの温かい声。


「いや、それは……お前が勝手に推しはかれるものじゃない」

一つずつ掘り下げてしまえば、いつだってそれはしっかりと絡まり合っていた。
気が付けば、分別さえできない巨大な罪悪感の塊はいつも俺の手に握られていた。

だから俺は……
その都市の塊を。

「ヴェル、思い出してみて。保育園の子供たちがもう彼ら自身はなくなってしまったこと、貴方を助けると言ったあの小さなフィクサーは卵の中へ還ってしまった。とっても悲しいことに見えるけど、あなたがしてきたことに比べれば本当に些細なことじゃない」
「……」
「それなのに、どうして貴方の心はそんなに痛いのかしら?」


声は俺の全てを見ている。今まで誰にもまとも打ち明けなかった俺の人生。俺の瞳が血を見ていなかった頃、俺が歩んできた人生それさえも、その声は見ている。

俺は、俺が歩んできた道を全て覚えている。


助けてくれと泣き叫ぶ人々、まともな悲鳴を上げることさえ出来ずに埋められなければならなかった人々、崩れゆく建物、そして。


血を流す命たち。


実際、その全てとは正反対に温かな光の世界があった。それは確かに、俺が作り出した光でもあった。必ず俺を待っている場所。悲鳴と叫びの代わりに喜びと期待の声が聞こえてきた場所。


「そっか、保育園は貴方にとっての希望だったのね」

声が代わりに答えてくれる。

「貴方はずっと都市を、傷だらけのものだと思っていた。でも貴方は手についた汚れを洗い流さなかったし、これからもその手で、都市に流れる血を絶やさない人になるんでしょう」

ああ。この都市の傷は深く、悪臭がして……いつだって膿んでいたから。

「この都市を治療する方法は知っていたけれど、その道はあまりにも残酷だった、今まで流した血よりもこれから流す血の方が多くなってしまう。中途半端でも優しい貴方は、その道をいつも心の奥深くにしまっていたのね」


……その道をとても緩やかに回っていく道があった。

「そうしているうちに貴方は見つけた」

まだ手に血をつける必要のない……

「貴方の代わりに都市を変えていけるかもしれない子供たちを」

その保育園は俺だけの辺獄だった。俺が犯した罪を告げたことはなかったが、罪の大きさほどに高くそびえる善意を買えば心は雪解けのように軽くなる。

「合間に水を撒いて、肥料をあげて……陽射しは十分か、虫食いはないか」

声はまるで自分のことのように話す。

「貴方は面倒を見ていた。今まで巨大な流れだけを感じて生きてきた貴方が、ほんの少しの小さな流れの可能性だけを見ていた。そうでしょう」
「ああ。お前の言う通り、俺は弱くとも可能性を秘めた種を植えたかった」

陽射しが全く入らない人目のない場所の隅で、隠れているものがあった。見えないからといって不完全な訳ではなかった。
それから木を育てるように、世話をした。

「俺の代わりに生きて欲しかった。俺が持つことの出来なかった心を子供たちに持たせて生かすことが出来ればきっと、たとえ細い流れだとしても大きな幹に育つだろうと」


しかし。

俺は本当にその保育園が、都市を変えることが出来ると思っていたのだろうか。

「いいえ……ヴェル、そうじゃないってわかっていたんでしょう。子供たちはただ、貴方の手に濡らした血を洗い流す為の紙切れでしかないって。貴方自身が刷った貴方の罪の免罪符だった。でもその免罪符が全て破かれてしまったから……」

同情するような声に包まれた。しかし同時に声は締め付けてきた。

「それで、貴方に無数の罪が押し寄せたのでしょう……そうなってしまえば心にはひびが入るしかない。でもそのおかげで、私たちはこうして会って話せるようになったわ」

罪悪というものを感じたのは、いつからだっただろうか。

俺はいつからか俯いたまま行き場を失った。これ以上どこかへ向かって歩くことはなかった。結局この茶番の全ては、人生の真ん中で罪悪感故に動けなくなってしまった俺の魂を守るための最後の足搔きだったのかもしれない。
行きたかった場所へ行くにはあまりにも困難だということを知っていたから。


「それでもね、ヴェル。ここはちゃんと貴方をさらけ出す場所よ。だから……最後まで聞かせてくれるかしら?」


心にひびが入る。声はその小さなひびからすべてを見ていた。ずっと前から隠していた、一度も研ぐことをやめることのなかった俺の中の刃。
その心の中にあった刃がひびによってはじめて明らかになったことを、俺も声も。
誰もがわかっていた。

「貴方が本当に望んでいたのは……保育園の茶番なんてものじゃなかった。貴方が望んだのは……」


「貴方は……全てのものを■■■■したかったの」

「……!」


そう、全てをもう一度■■■■■■■■ことこそ……

 

都市というものの殻はとても硬かった。その殻を割るためにあまりにも多くの血を流したにも関わらず、その一番奥に存在する都市の傷には届かなかった。その中へ入り込んで傷ついた心臓まで至ろうとした俺がその事実を一番よく知っているだろう。


「そんな貴方の大きな意志は、保育園で何ともならない贖罪を続けていくうちにだんだん埋もれて行った。影もかすんでしまうほどに」

いや、そうだとしても俺はその願いをたった一日でさえ成し遂げたことはない。鋭く尖った願いがいつでも■■の全ての■■を断ち切れるように。
でも、そんな気持ちになる度に心の中で踏みつけて奥底へ埋めていた、それだけだ。

「でも、埋めたところで辛いのは同じよ。その願いというのがあまりにも鋭すぎて、貴方の心に癒えない傷をつけているから」

声はまるで自分が傷ついたかのように痛みを詠う。

「あまりにも手の届かない夢だからままならなくて、漠然としてて、息が詰まっていたんでしょう……もうそんなことは隠さなくていいのよ。皆自分が正しいと思う世界を作っていけるようになったんだから」
「自分だけの世界……何の話だ?」
「貴方の目で見つめていたい世界、そのものよ。私は皆が都市に自分だけの色を塗れるよう手伝っているの」
「自分だけの世界だと?互いの色はバラバラなんだから、絶対に平和に塗り合うことなんて出来ないんじゃないか」

そんな方法なんてものが存在していたら、誰よりも先に俺が実行していただろう。

「そうよ、貴方の言う通り光にはいろいろな色が混ざってる。だから自分の色を守って塗る為に、最善を尽くさなきゃいけない。たとえ耐え難い試練に迫られても。それでも進んで戦って勝ち取るの。この世界の、全てと対して」

俺は都市の殻を砕きたかったし、その道を阻む全ての存在と戦って、立ち向かって、全てを壊して、その果てに新しい世界を生み出したかった。


「お前の言う試練とはなんだ?」


そんな方法があるのならば、それが正しいのならば。
聞きたい。


「例えば、あの子が経験していることや、ここの実験室にいた子たちが変わっていく前に経験したこと。自分の力ではどうしようもない世界を知った時、■■を隔離して確立するためにその中へと籠る自分だけの卵」


赤い宝石になってしまったガーネットを思い出した。

「その卵に入ったらどうなるんだ?」
「そうね、卵の殻を破って出てくるかもしれないし、罪に呑まれて何にもなれないただの残滓になることもあるわ」

無垢な声。

「その結果は誰にもわからないはずよ。卵の中で自分だけの■■■■■■■■■を決めないと割って飛び出すことなんて出来ない。その途中で耐えきれずに割れて出てきてしまったものは、罪に呑まれた残滓になるの」
「ねじれとは違うということか?」
「ジョムスニはきっと、世間でいうねじれなんでしょうけど……実験室の子たちはただ罪の姿をとって出てきただけ」

罪の姿……床を這う泣き声が頭の中に響く。


「でも、変じゃない?いつからかはわからないけれど……心の姿と色を露わにした人たちを指してねじれっていうのよね」

都市に光が広がった後に始まったねじれ現象。都市に血を流し、その血を掬おうとする者でさえ血を流させる異形の存在。
声はあまりにも肯定的に話し続ける。

「貴方もそう思うの?ただ、こじれてねじれてしまった姿だって?」
「……正常な形ではないだろう」
「正しいわ……彼らには自分が正しくて世界が正しくないように見えるでしょう。何より、自分自身を愛せるようになって自分の目で世界を見れるようになったんだから」

声はまるで、夢の中にでもいるように語る。
その言葉はあまりにも夢のようで……。
それが理想のようにも聞こえてくる。

「都市の視線と基準に囚われずに、ひたすら自分の形になるの。ただその現し方によってその形が変わるのよ。……私とは考えの違う後輩がこの光のどこかにいるおかげね」

軽く紹介するかのように放たれる『後輩』という単語が気になる。
まるで全ての原因と結果に関与しているかのような軽やかで落ち着いた口調も。

「……お前はその全てをどうして知ってるんだ?」

当たって欲しくない予感が集束していく。

「お前はこの現象と関係があるのか?」
「そうよ、でも貴方だけの色を咲かせるのをお手伝いする友達でもあるわ」
「人間から色を咲かせることが、お前にとっては本当に大事なことのようだな」
「ヴェル、貴方はどこに向かってるのか……知ってる?」

わからなかった。ぼんやりと立ち止まって、ずっと目的地から目を逸らしてきた。
……ずっと目を逸らしてきた。


「私はね、昔から気になってたの。皆どこに行こうとしてるのかって。まあ、どこかに行こうとしているのは確かだけど……一体どこに行こうとしてあんなに感情が生まれるのかって……」

時間の中で生きる人間はどこへでも行こうとする。
当たり前のことだ。

「これは私の考えなんだけどね。人っていうのは愛に向かっていこうとしてるのよ」

愛?
聞き慣れない単語が引っかかる。

「愛は何よりも相手のための感情だと思うけれど……私たちがお互いに愛してるって思う全ての行為はひとえに、自分を愛するための過程でしかないと思うの」
「討論でもしようというのか」

いいえ、ただ聞いてくれればいいの。声は軽く投げかけるように言って話を続けた。

「結局のところ自分を完全に理解して見ていてくれるのは世界に自分ひとりだけだから……人間は、自分のことでないことを本当に理解したり愛したりすることはできない。だから自分を愛することだけが本当の終着地なの」
「その言葉が正しいのなら……自分以外のことには目を向けてはならない、ということか?」
「……私の後輩と同じ質問ね。我々は戦わなければいけないが、人間であるならば感情ではなく理性で……」

声は言い換えた。

「だから、人の姿を孤高に保ったまま、服と道具によって最も人間らしい姿で闘わなければいけない、と言ってたわ」
「……」
「でもそれは汚染よ。自分をさらけ出すのに自制なんて必要ない。結局何かしらを一度介するってことは正しく至ることは叶わない、そうやってぐるぐる回り道ばかりしてるときっと、また自分が望むものなんて薄れて忘れちゃう」
「……今の都市の人たちのようにか」
「そうよ。それに自分から作られた道具が壊れてしまったら、かえって心まで壊れちゃうかもしれないじゃない?だからありのままの自分の身体だけで愛を示さなきゃ。身体と心をぶつけながら……自分を愛せばいいのよ」
「自分以外の全てのものからは……目を背けながら?」
「ええ」
「……いつもこんなやり方で目を覚まそうとする子供に別の道を押し付けていたのか?」
「一度も考えたことのないような質問をしてあげるの。そうしたら普通に互いを理解するようになる。新しい道へ進めるように、私が応援して力を貸してあげるのよ」

温かくて、残酷な誘い。
何も見ることなく、ただ自分を愛することだけに徹しなさい。
それが出来るように力を貸すと。

首の後ろの辺りが温かくなる。
今までにこれほど甘い解決策を提示してくれた人がいただろうか。
個人なんて概念が無意味なこの都市で、他のものを見ずに"私"らしさだけを見つめていて良いという言葉は……
このまま目を閉じてしまいたいほど、きらびやかだった。

 

だが。

 

「お前の言う通りなら……きっとすぐに満足することは出来るだろう。飢えることなく満たされる。そしてそれは恐らく一度も経験したことのない満足感だろう」

それでも。

「それは一瞬の快楽に過ぎない。目先の満足のために沢山の点のあのねじれのように世界を塗り潰したところで、そんなやり方では全てを塗ることなどできない」

それは、結局満たされることのない渇きだろう。

「それなら……ねじれは、自分だけを見つめてその先を見ることを出来なくさせるものなんじゃないのか」
「……そうかもしれないわね。でもそれって貴方の解釈だし貴方の色じゃない?私には私だけの色があって、他の人たちにも彼らだけの色がある。私はただ、もう一つ他の道を教えてあげているだけよ」
「卑怯だな」
「ヴェル、貴方が私に対して善悪の基準を突き付けて判断するのは、貴方が傷つけられたって考えてた都市らしさの一面みたいじゃない?」
「……もう目は覚めた」

確かに声との対話から得られるものはあった。
心の中に隠されていた刃が露わになり、何に向き合えばいいのかを改めて悟った。
それでもその道は全ての美しさと醜さを視線に刻み込んでこそ進むことが出来る道だ。
……周りを抑圧してでさえも。

「もうこの会話は無意味だ」
「私の提案はそんなにイマイチだった?」

声はとてもがっかりしたようだ。

「お前は全てのねじれの原因のようだな。誰なのかは俺には知る術がない。だが……この全ての囁きの後、お前が望むことは何なんだ?」
「言ったじゃない、皆が自分の色を塗るためには、全てに対して戦わなければならないって。それに私だって人間なのよ。私も■■■私の■■■が■■■■■■■じゃない?自分になれるように力を貸した後に、それでも自分が生き残るのに失敗したなら■■■は私に■■■■■色を世界に塗ってくれる■が■■■■よ」

答えを聞いた俺は目を閉じた。

「そして最後の最後に■■■■■■■■■……全ての■■の■■と■■の流れに■が■■■■を■■■■■ってことなの」

ああ……
訳の分からない笑みがこぼれる。失笑だった。

まるで飢えた獣のように全てのものに対する果てしない渇きによって自分だけの世界を作らなければならない世界。
声の言う通りに往くのならばきっと甘美だ、だが俺の行きたいと願う場所には決して辿り着くことは出来ないだろう。

だから俺の往くべき道は一つだけだ。

今までも経験してきた、そしてこれからも数多の苦痛と渇きに耐えながら歩み続けていくのは……
俺でなければならない。

「俺たちは正反対の道を往くことになるだろうな」
「そう、それなら貴方のやり方で進むと良いわ。それもまた貴方という人間の色だろうから」


そして俺は。
全てを背負い、いつか勝ち取る勝利のための茨の冠を頭に被る。


茨が俺の頭を包み込み色褪せた月桂樹の葉が生え、これから背負わなければならない全ての罪を見て俺の目から血の涙が流れる


そしてこれから歩む茨の道にて、業を背負う血のカーテンである赤いベールが俺の全てを覆う。


俺は淵へと引きずり降ろされる。
そこには数多の叫喚があり、万人の苦痛が俺と共にある。
淵は深く暗く、先を見通すのも難しい。
だが、手にして勝利してやろう。


全てをこの目に刻み込みながら。

それから。
古き友人と約束した、願い止まなかった天国を世界へと届けて。

俺は。
俺の業の地獄に落ちて、そこで一人、安息へと至るだろう。

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